創設〜80年代
★発足顛末
天文研が発足したのが1969年。アポロが月へ行った年だ。
当時、法政大学には天文をやるサークルが全く無かったと言うわけではなかった。法政地学会というサークルが天体観測を行っていた。しかし、地学会は天体観測というよりも関東ローム層の研究を主として活動し、天体観測は年に2〜3回景信山で観測会を催す程度で、いわば天文は「オマケ」だった。
そんな地学会のメンバーの中で天体観測をメインにして行きたいと考えた佐藤氏(72年卒)・平野氏( 年卒)という二人の人物が地学会を脱退。ついでに川崎氏( 年卒)という人物もその二人につられて脱退した。この三人と文学部地理学科の天文好き小平氏(72年卒)、野次馬の小林氏( 年卒)と言う人物が意気投合して天体観測を主とするサークルの設立を画策した。この5人から現在の法政天文研がスタートしたのである。いわば神。
さて、この設立の経緯からして当初の会の運営には地学会の影響が強く、サークル論・観測地・運営等で共通する部分が非常に多かった。その一方で組織的には委員会制度を目標としていたため、同種の制度が確立していた史跡研究会の影響が大きかった。同会からはガリ版を買い入れたり多少の援助もあった。地学会と史跡研はいわば天文研の父と母なのである。しかし、残念ながらこの二つのサークルと天文研との交流は無い。
さて、実際の会の設立には大きな問題が二つあった。
一つは顧問の問題である。今もそうなのだが大学からサークルとして公認されるためには顧問の存在が必要不可欠なのである。公認されれば毎年学友会から援助金が出るためサークルの公認化は欠かせなかった。そこで、設立メンバーは英米文学者として有名な某教授の元へ「サークルの顧問になって下さい」とお願いしに行った。宇宙文明論の本も執筆していたというのがその理由だったが、設立のために必要な書類は結局書いてもらえなかった。これには設立メンバー一同が憤慨し失望した。
次に理科教育法の授業で天文学の講議をされていた三井先生という方の元へ顧問のお願いをしに行ったところ、氏は大変乗り気で手続き等も一瞬の内に終了した。
もう一つの問題とはズバリ金。
いつの時代も金は人類永遠の問題として我々の前に立ちはだかる。当時の天文研も資金的に非常に苦しい状況にあった。望遠鏡一つ満足に買えず事態は深刻だった。当初は大学が何故か所有していた天体望遠鏡を借用するという計画があったのだが、それも大学側からノーと言われ頓挫。仕方なく佐藤氏が自分の貯金を月賦返済かつ無利子といいう条件で提供し、機材の購入にこぎつけた。小平氏がタカハシを強く勧めたのでタカハシの機材を購入したらしい。
この頃になると佐藤・平野両氏がサークルの運営面を担当し、小平氏が学習会を担当するようになって来た。余談だが、サークル名は「天文愛好会」や「天文同好会」などがその案として浮上したが、結局一番プロ仕様ということで「天文研究会」という名に決定した。
翌年、1970年は天文研はじめての新歓であった。サークルの存続をかけた必死の呼び込みで数名の新入生を獲得し、天文研はサークルとして始動し始めた。
★天文研と学生運動
さて、天文研が設立した当初は学生運動が盛んだった時代だった。天文研のメンバーも時代のすう勢なのか学生運動に参加していたのである。もちろん、参加すべきではないという意見も会の中からあがることもあったが、そう言う意見は黙殺された。
しかし、天文研という自然を対象にしたサークルだけに政治系や思想系のサークルと比較すると、そう過激に活動していたわけではないようだ。天文研が学生運動に参加したのはサークル活動の場が欲しかったからである。天文研設立当時はサークル活動の場は法政大学に事実上無かった。そんな中で学生会館設立運動が起き、部室が欲しいと思った各サークルはこぞってこの学生運動に参加したのである。もちろん、天文研もその中にいた。
天文研は学生団体連合というサークル組合に加盟しており、その役員を輩出したりデモ行進などに加わる等、学生運動に身を投じた会員も多かった。現在、天文研が学生団対連合から配分されている活動費(学友会費という)は、他の学術サークルよりも多いのだが、これはこの時代から学生運動に積極的に関わってきたおかげである。現在では学生運動を否定する風潮が高まっているが、少なくとも天文研において学生運動は高額な活動費と部室の獲得という利益をもたらした。
実際に学生会館が建設され、天文研にもBOXが与えられたのは70年代の半ばであるが、それ以降も天文研は学生運動に参加していた。その名残りがBOXのロッカーや壁に落書きとして残されていた。見るに「町田移転阻止」・「日共センメツ」・「法大全共斗は斗うぞ」などなどアナーキーな文字が独特の文体で書かれていた。
現在の天文研は学生運動に無関心な人間がほとんどであり、リベラルでアナーキーな左派はもういない。むしろ法政なのに保守派の人間がいるくらいである。
★大学天文連盟への加入
法政天文研はその設立より間もなく大学天文連盟に交流校として参加していた。当時、天文研の活動としては流星観測にその主体が置かれていて、流星分科会のオブザーバーとして参加していたのだった。2、3年経つに従って正式加盟の討論が会の中で行われ、天文研自らの性格と大天連への参加の方法が模索されていった。
しかし、当時の天文研は活動の基盤ができつつある時であり、自らの基礎を固めることに重点がおかれ、正式加盟は先延ばしとなっていった。
そして1975年流星分科会のみであるが大学天文連盟に正式に加入したのである。
その後、1977年には法政天文研が理事局校となり、三野輪氏(78年卒)が理事局長として一年間活動した。この加盟が刺激となって、天文研内部で流星から他のものへと観測の対象が広がって行った。
★初期におけるサークル存亡の危機
1973年、天文研は4年生と1年生のみという変則的な構成だった。そして1974年、4年が全員卒業してしまい天文研は2年生5人という、少人数のサークルとなってしまった。サークルというのはとにかく人がいなければお話しにならない。2年生が5人のままでは将来的に消滅してしまうのは明白である。
ところが、この5人の2年生の必死の勧誘の甲斐があって、新一年生が入会し、サークル存続の危機はとりあえず去ったのである。この5人(長谷川、板倉、深山、遠藤、小池(敬称略))は創設期の5人と同様、現在の天文研の存在において大変重要な人物である。
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80年代〜90年代
★80年代前半
80年代に入り、天文研究会も発足10年を迎えた。当時は合宿の他にも正丸峠・戸隠高原をはじめ様々な場所で観測会を行っていた。このころ天文研究会の中核となっていたのは流星班という分科会で、4連写真儀という秘密兵器を武器に、流星観測は天文研究会の代名詞的な活動として認知された。
そんな中、流星班は流星群のたびに観測へ赴いていた。
また、より星が見える場所を求めて、常に新しい観測地を貪欲に見つけようとしていた。
このころの学園祭では主にスライド上映や天体写真展示を行っていた。
ただ、集合の悪さや段取りの悪さは当時から指摘されており、これは現在に至まで変わっていない。
この当時も各自責任感を持って学際に臨むことが叫ばれた。
学園祭の展示場所は時代によって僻地の69年館(現法科大学院棟)や平凡な58年館(一般教室棟)だったりと、けっこうコロコロ変わっていたようだ。
学習会は時期にもよるが毎週1〜2回ほど定期的に行われていたが、
年度始めに立てた計画通りに上手く事が運ばず、その運営には苦心していた。
また、流星ばかりが活躍してる意印象が強い80年代前半であるが、流星班の後を追うように、写真班・彗星班が誕生。写真班は白黒写真を自分で現像し、引き延ばすなどの写真部顔負けの活動を行い、彗星班は彗星についての文献を調べたり学習会を独自に開いたりしていた。
特に彗星班の活動が本格化すると、ゼミ形式の学習会を中心にしたかなり学術色の濃い活動を行ったようである。また、それまでなおざりにされていた惑星班の活動が活発化し始めた。
班活動がにわかに活気づいたのも80年代前半の特徴である。
このときの観望会は、埼玉や山梨を中心として各班毎に行われていたようである。
1984年になると、法政大学の歴史で重要な出来事である多摩キャンパスの一部移転が行われる。
当時は多くの大学が郊外への移転をしていた時代であり、法政もこの波に乗ったと言える。だが、都内で学生運動が最も盛んな大学であるが故に、学生からの反発も凄まじく、
天文研究会内からも批判的な意見があがっていたようである。
この頃でも精力的に新観測地開拓の努力も続けられた。
観測地積み立てなるものも登場したほどである。また、「天文学班」という班が新たに誕生。
その活動は主に天文学ではなく、神話や伝承などの文化人類学的な活動をしていたようだ。
順調に発展していたように見える80年代前半の天文研究会であったが、色々な問題もまたあったようだ。当時の学習会の形態は、ゼミ形式での文献発表と自由研究発表だった。
その内容は高度だったが、無断で遅刻や欠席するものが後をたたず、出席率には頭を悩ませていたようだ。これは現在でも続いている問題である。サークル参加率の悪さも幹部の頭を悩ませていた。
また、10年近く参加を続けていた大天連からの脱退があった。
★80年代後半
80年代の後半になると「気象太陽班」が発足。班別の活動という色が濃くなった。
気象太陽班は65mm屈折望遠鏡による太陽の観測や、気象通報記録を行ってた。気象通報記録は天文研究会としては珍しい活動であろう。他のサークルでは「分科会」と呼ばれる「班」は数多く存在していたとはいえ、80年代の後半になると全体的に観測活動が下火になってきた。天文研究会の看板である流星班は一番活発に活動していたが、それでも衰退の感は否めない。
ただ、学術的な活動は衰退していたが、サークル全体の活気はあり、実に活発な様相を呈していた。バブル経済の始まりの頃である。学習会は従来と変わらず続けられていたが、その方向性やテーマについて暗中模索していたようである。
80年代の末期になると写真班の活動が衰退した。一時期は引き延ばし機まで購入し、意気揚々たる様相を呈していたが、このころになるとほとんど活動らしい活動を行っていなかった。気象太陽班は意気込みはあったものの、実際の活動は尻すぼみだった。
合宿や観測会と称して星を見に行くことは行くのだが、それまでのような学術的な観測をするというものではなく、詳細な観測記録も残されていはいない。「観測」という行為を行う中の「天体観測をしているんだなぁ」という雰囲気にひたるという状態であった。
天文研究会内部では、活動に参加する人間としない人間の温度差が目立つようになった。
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90年代〜2000年代
★90年代前半
90年代に入っても衰退の流れは止まらなかった。学習会は参加人数にむらが出始め、学習会は低調だった。その一方でサークルの人数は増え、BOXはいつも人で一杯で、飲み会は妙に盛り上がるという状態だった。
班活動は星野班が順調に活動を続けている一方で、写真班は衰退著しく、何の活動もしなかった。
また、スケッチ班が新たにできたことが特筆すべきことだろう。天文研究会を何とか盛り上げようとした、その意気込みが感じられる。
そのもうひとつの発露が、惑星班である。惑星班が活動を10年ぶりに盛りかえした。
一方で、私大ブームの最中ということもあってか、サークル員の人数はどんどん増えた。
天文研究会は飲み会や合宿などでものすごい盛り上がりをみせ、実に活気づいた時期でもある。
年を追う毎に会員は増え続け、ピーク時では50人近い人間が天文研究会に在籍していた。
だが、その一方で複雑化する人間関係や、学習会の無断欠席、私語、発表の準備不足などが目立つようになり、サークル活動本来の目的を見失いがちになった時期でもあった。このころ観測部の活動が特に目立ち、観測ガイドというものを発行した。
その他スケッチ班の活動が少々あるものの、それ以外の班活動は完全に停滞していた。その状況を打破しようと、これからのサークル活動の方向を模索しようとする動きもみられたが、全体的な衰退の波は静かに押し寄せていた。
そしてバブル崩壊と時を同じくしたようにサークル員の増加が止まり、張り詰めた糸が弛んだような、ユルい雰囲気がサークルを支配した。
90年代中盤に近付くにつれ、天文研究会というサークルの行き詰まりと限界を感じる者が出始めてきた。だが、本来の活動を見失いかけた天文研究会であるが、それを止めようと必死になる幹部もいたことは書いておかねばならない。
★90年代後半
90年代後半は、サークル活動全体がはっきりと停滞期に入った。
天文研究会はサークルとして機能しているのがやっとという状態であった。
このような状況で、写真班がやや活動を盛り返した以外は、班活動は完全に衰退した。
もはや有名無実化したと言っても良い活動状況であった。
また、一時期50人に迫る勢いだった会員数も、卒業生の増大と新入生の減少著しく、人がどんどんいなくなることでその数を減らし、新入生が一名という年もあった。
★再びおとずれた深刻な存亡の危機
1997年、新入会員は竹内氏(2001年卒)の1名。当時の会員構成は4年が4名と2年が2名という状況で、活動もほとんどせずに、また意欲もほとんど無くなっていた。一時期は天文研を本気で解散しようかとも議論が行われたようである。
翌1998年春には3年生2名と2年生1名という悲惨な状況で新歓活動を迎えねばならないことは必定であった。しかし、この窮状を見かねた田尻氏(97年卒)が忙しい仕事の合間を縫ってBOXへ脚を運び、さらに4年(7年)の新井氏(99年卒)がさらに1年大学に残る決意をしたことで、会員の士気は向上し、1998年には実に10名を越える新入生を迎え、翌1999年には総勢26名まで人員は回復した。このサークル存亡の危機において、「人がいなければサークルは成り立たない」というごく当たり前のことが再認識されたのであった。
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2000年代以降
★2000年代前半
90年代末の危機を乗り越え、30周年記念式典も無事に挙行した天文研は、2000年を迎えて本格的な体制刷新を図った。
体制刷新は主にソフト面から行われた。長年続いてきているものの、既に有名無実化してしまった観測班体制を完全に破棄し、研究活動を完全に放棄した。これは、文系大学のいち学生が天文学に貢献できる分野が狭まっており、サークルレベルでの学術的な天体観測はもはや意味はない、と判断したからである。餅は餅屋にという発想である。
また、学術的な研究観測活動はサークル員の賛同を得にくく、現在の天文研究会にはなじまないという理由もあった。次に、急速なコンピュータの普及に伴い、会員名簿などをデジタルデータ化して一元管理するということも行われた。また、会員の連絡にはメーリングリストやBBSを用いて行うような体制が確立され、電話連絡網は廃止された。
さらに同時期にwebサイト設立案が出され、これが承認されたため、2001年よりwebサイトが開設された。その他にも「爆明」の廃刊や規約の改訂などが行わた。
一方、学習会は年々その形式・内容がきちんとしたものになった。2000年代初頭の学習会では場当たり的な発表会という色が強く、90年代後半の色を濃く引きずっていたが、次第に形式が整い、ゼミ形式で内容も高度なものとなった。
ハード面での刷新はソフト面での刷新を受け、研究活動に主に使用するものではなく、天文趣味の原点である「天体を見るよろこび」を主眼にした機材を揃えることになった。旧機材は一部を残してそのほとんどを処分し、手軽に運べて簡単に使える機材を中心に新たに買い揃えはじめた。
天体観測と研究活動という長年天文研究会が続けてきた路線と完全に決別したゆえ、実際の合宿や観望会では、美しい天体写真を撮ったり、天体を望遠鏡や双眼鏡を通して鑑賞するということがメインとなった。
この頃のサークル内の雰囲気は、概して良好であるが人間関係が希薄だった。熱心に星を見たり学習会に参加しようという人間と、サークルに自分の居場所を求めるだけの人間の二極分化が著しかった。今後ともこの二極分化の傾向は続くであろうと思われる。
★学生会館の封鎖と解体
体制刷新が一段落し、活動も順調なすべり出しを見せていた矢先、2004年4月20日未明、学生会館3階空手部より火事が発生した。学生会館が火事に見舞われたのは幾度となくあるが、度重なる火災によって大学は消防署から度重なる警告を受け取っていた。そのため、この火災の直後から大学は学生会館の一時使用停止を決定。その後解体が決定された。
解体後の跡地には、新しい学生施設が建設される予定が発表され、その際大学はBOXを設置しないという方針を打ち出し、学生を困惑させた。2004年をもって天文研は1974年の学生会館入館以来、30年間にわたって活動に大きな役割を果たしたBOXを失うことになった。
(「学生会館解体顛末記」に詳述。PDFファイル)
★2000年代後半
学生会館の解体と共に、天文研はその所有する機材や各種資料・書類などを置く場所として、幾つかの場所を与えられた。ひとつは隣の新宿区にある旧通信教育部棟、通称「通教棟」の一階倉庫・もうひとつは同じく新宿区にある62年館地下食堂脇のロッカー。そしてボアソナードタワー地下駐車場の一角に設けられたパイプカーゴである。
望遠鏡をはじめとする大部分の機材は旧通教棟の倉庫に収納した。ここは鉄道研究会と共同利用であり、わずか5平方メートルのスペースに鉄製の棚を高く組んで、そこにぎゅうぎゅうに機材を詰め込んだ。少しでも詰め方を間違えると、全部収まりきらない、それほど手狭な場所であった。
62年館地下には主に書類関係や機関誌のバックナンバー・書籍を収納。パイプカーゴのほうには学園祭関連のものを中心に収めていた。
いずれの場所も出入りに煩雑な手続きが必要であり、使い勝手はあまり良い物ではなかった。 また、旧通教棟の二階にはスクリーニング用教室を改装した学生用スペースがあり、何か会合のときにはそこに集まるということもあった。
このような状況下で、サークル活動を余儀なくされた天文研であったが、それでも観望会などに良く出かけ、法政の文化系サークルの中では積極的に活動している部類であった。そのせいかどうかは定かではないが、新入生も他サークルと比較して多く獲得でき、何とか活動をして行ける基盤を維持できていた。
この時期、法政大学は隣接する嘉悦学園女子中高の土地建物を買収し、一気に耕地面積の拡大を図った。そして、天文研の新たな「荷物置き場」としてこの嘉悦学園の校舎の一角があてがわれることになった。残念ながら大学としては「部室」ではなく「倉庫」という扱いで、煩雑な更新手続きなども必要となるが、一応、安定した活動拠点が2006年度になってようやく確保できたのである。
参考史料:一部始終(下記掲載)・夜光虫(各年度版)
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